谷内こうた「宿の裏庭」
1978年(個人蔵)

 

昨年2022年の秋、長野県松川村の安曇野ちひろ美術館にて、画家で絵本作家の谷内こうたさん(1947-2019)の回顧展「谷内こうた展・風のゆくえ」が開催されました。その展覧会が作品を一部入れ替えて、東京・練馬区にあるちひろ美術館・東京で6月24日から10月1日まで開催されています。
谷内こうたさんの描かれた絵本は、語らずして語るという深い広がりのあるもので、言葉を表現の絵に近づけないような、強さを含んだ透明な世界がそこにあります。広々としたものへの憧れと、変わり続ける光や風をみつめるまなざしが谷内さんの色彩表現と融合し、描かれた絵の中に時間の清流をつくっているのだと思います。
昨秋、安曇野を訪れたく思いましたが、この間が当店の展示会「裂のほとり」金沢展の準備作業と開催後の諸々の作業が続き、伺うことはかないませんでした。楽しみにしていた東京での回顧展に、先日ようやく行ってまいりました。練馬のちひろ美術館・東京に足を運んだのは、どれほど前のことでしょう。出かけた梅雨の晴れ間の日はもう、真夏ほどの暑さでした。

 

谷内こうたさんは、自分が十代のときより2019年にお亡くなりになるまで長いお付き合いをさせていただいた方になり、このような歳月が過ぎていったことは本当に稀な深い御縁であったと思っております。谷内さんはご家族とフランスに在住されていらっしゃいました。十代から二十代になった頃の私は、お便りをするエアメイルの封筒や、頂くお返事の外国の切手に、行ったことのない遠い国フランスの香りを感じ取っていたものです。本当は谷内先生とお呼びしなければ失礼だったのかもしれませんが、そんなことにも気付かないでいた十代で、気の回らないまま、ずっと時を過ごしてきてしまいました。ここでも谷内さん、とそのまま呼ばせていただくことをお許しいただきたいと思います。

 

これまで谷内こうたさんのことを記させていただいたことは一度もありませんでした。谷内さんとの御縁は家族くらいにしか話をすることがありませんでしたので、このように書かせていただく時が来たことに、深い感慨を覚えます。回顧展が開催されている今、谷内さんにまつわることを、時を振り返りながら綴らせていただこうと思います。少し長い道草になると思います。

 

御縁の始まりは谷内さんの作品『ぼくだけの にんぎょう(至光社)』という絵本でした。十代の学生だった頃、入っていた美術部には、とても個性的な女性の先輩が何人もいらして、私は放課後の美術室でその先輩たちがお喋りする様々な事柄に耳を傾けるのが好きでした。音楽のこと、どこかの展覧会のこと、お茶の水にあるという喫茶店の話、美味しいコーヒーゼリーのあるお店の話、神田の古本屋の匂いについて、深夜のラジオのこと。先輩たちの時間の過ごし方がどれもおしゃれに思えて、黙って笑顔して傍で鉛筆を削っていたりする自分は、お茶の水の街に一人で出かけるという、そうした大人びた過ごし方に想像を膨らませました。足を組んでキャンバスに向かいながら、素敵に頬杖をついている先輩たちの姿はかっこよく、「こうかな、」と自分も足を組んで先輩の真似をしてみたり、美術部では画を描くというよりも、個性の光る、すでに大人の女性に思えた美術部の先輩たちの醸す雰囲気に憧れてそこにいた、といった感じでした。今思い出しても独特なムードのある、素敵な先輩方でした。

 

 

 

谷内こうた「ぼくだけの にんぎょう」
至光社 1983年 第2版

 

私はデッサンを消すことで持参を許されていた食パンを、いつもそれに使うことなく、おやつに食べていました。いつものように窓の外の校庭をポカンと見ながら、こっそり苺ジャムをのせて食パンをかじっていたとき、後ろから先輩の一人が「きれいな絵本だから貸してあげようと思って。」と言って、谷内こうたさんの「ぼくだけの にんぎょう」を私に差し出してくれました。それは言葉少なく、色彩の大変きれいな、自分が今までにみたことのない素敵な絵本で、私にはまるで画集のように感じられて胸が高鳴りました。だいじにお借りすることにし、そして先輩にお返しする頃には、どうしてもこの絵本を自分でも手元にほしくなったのです。ところが先輩に尋ねると、なんと絶版で「もう手に入らないんじゃないかなあ」とのこと。今のようにインターネットで探すなど出来ない時代です。心当たりの本屋さんに在庫がないかを尋ねることくらいしかできず、やはり見つかることはなく、がっくり肩を落としました。それでもあきらめられなかった思いから、思いきって谷内さんにお便りをお送りしたのでした。おところがわからないので、絵本の出版社宛にお送りいたしました。

 

それからひと月以上過ぎた頃です。季節は春でした。帰宅してポストを開けた時、自分の名前が万年筆で書かれた白い封筒が一つ、ポストに斜めに落ちていたのを見て、はっとしました。封筒の裏を返すと、神奈川県のご住所で、谷内こうた、と書かれてありました。お送りしたお便りに谷内こうたさんがお返事を下さったことに驚き感激して、手にしていた学生かばんを庭の芝生の上に振り落としたことを憶えています。その時から、37年間続くお便りのやりとりがはじまりました。後年はインターネットの時代になり、メールアドレスを交換させていただいたこともありましたが、谷内さんも、私も、とうとう一度もメールを使うことはなく、お手紙のみが通信の方法で、急ぐ用件も一度もなく、それが37年の間続いたことでした。

 

初めて頂いたお便りには、お送りさせていただいたお手紙に対する御礼の言葉と、こちらが記したいろいろなことに、谷内さんが感じられたことをふたつ、みっつ、書いて下さいました。そして最後に「お尋ねの絵本 私の手もとにも古い物が一冊しかなく 差し上げられず本当に残念です。ではお元気で…」と結んであり、『ぼくだけの にんぎょう』の絵本の中の、ねじ巻きのにんぎょうを描いて下さっていました。最初に頂いたこのお便りは、今も大切に手元にあります。 頂いたお便りからほどなくして、日本橋の丸善で谷内さんの個展があることを教えていただき、出かけました。その時の丸善のDMには「第2回 谷内こうた 油彩個展」とあります。そこで初めて谷内さんにお目にかかりました。

 

会場に入ると、中ほどに谷内さんがいらっしゃいました。私は入口付近でぎこちなく一礼のご挨拶をしたと思います。会場の中ほどにいらした谷内さんの、その表情が次第に笑顔になられてこちらに歩いてこられた、そのほんの少しの間の時間のことを、うっすらと憶えています。十代の自分がそのとき、何をどうお話しをさせていただいたのか、そのことは覚えていないのですが、会場を失礼する時に、丸善のDMにさらさらとボールペンで風に吹かれる木と、草原に寝そべる谷内さんとおぼしき人物の絵を描いて下さいました。1982.4.10の日付も一緒に。

 

その翌年の夏、とてもうれしい出来事がありました。あの『ぼくだけの にんぎょう』が今年再版されたということで(初版は1974年)、わざわざ谷内さんがご本をお送り下さったのでした。あきらめていたその絵本をそっと開くと、見返しに絵本の中のねじ巻きのにんぎょうの絵と私の名前、「1983年なつ」のサインを入れて下さっていました。大喜びで家の中を持ち歩き、机の上に飾りました。同封されたお便りには、「この本が届く頃には船でナホトカへ向かっている事と思います。またしばらくの間ヨーロッパで暮らしてみます。ではお元気で…1983.7.31 谷内こうた」とあります。ナホトカ…。船で…。谷内さんは遠い所に行かれたのだなあ、と、蒼い海原に大きくて真っ白な船が走る、その遠ざかる船までもが思い浮かんだお便りでした。

 

 

 

谷内こうた「にわかあめ」より
至光社 1977年

 

谷内さんというとお便りでした。私も、谷内さんも、頻繁なやりとりではありませんでした。でも、何か変化のあったとき、例えば店を移転する時などは、必ずお便りをさせていただきました。そのお返事が、ある時ふいにポストに届いている。エアメイルの切手のところに、たいてい飛んでいる飛行機の絵を描いて下さる。その飛行機の絵に「谷内さんからだ」と、ぱっと気持ちが明るくなりました。
私は最初の店を東京・駒場東大前で開店し、その後原宿、京橋、青山一丁目、そして銀座へと移ってまいりました。引っ越しする度谷内さんにお知らせをさせていただくと、そのうちにきちんとそのお返事が届いて、「今の時代大変だと思いますが」と、励ましのエールを送って下さいました。私のお便りと言えば、夏に家族で熱海の花火を見に行きましたとか、今年も熱海に行けましたとか、谷内さんとの時折のお便りのやりとりは、一年を送る中での点景のような、変わらない時間の流れにいつも平和なものを感じていました。春には銀座のギャラリー杉野さんにて谷内さんの個展が開催され、その時に谷内さんが来日されるので、会場でお目にかかれることを楽しみにいたしました。

 

店の移転では京橋から青山一丁目に移転をした時、一時の予定で店舗から事務所の形を取りました。それはすべての拠点を京都に移す予定からのことでした。移る場所も決定しており、建物が整いその地に移動するまでの間の事務所の予定でありました。しかし人生の後半を共に歩むはずの伴侶が急逝したことで状況が変わり、青山一丁目で事務所を続ける形をとりました。この間は谷内さんにご心配をいただき、力を落とさないようにとお言葉をいただきました。自分の好みを隅々にまで反映させた、自分の茶室をもつことが生涯の夢だったひとは、移転先となる建物の設計図を私に遺しました。その土地の入口には一本の山桜があり、「その木はきっと君が気に入る」と言ってくれておりました。遺された設計図には、その山桜の木も存在しています。

 

時間を経て、自分の体調をみて私はその山桜に会いに、そして謝りに、京都のその地を訪れました。毎年ここで、あなたの咲く花を見ることを、心の底から楽しみにしていたけれど、それができなくなったこと。状況が変わってしまったので、ここに棲むことが出来なくなったこと。土地が人手に渡り、もしかしたらいつか伐られてしまうこともあるかもしれないこと。本当に、ごめんなさい。どうか、許してほしい。あなたが、一日も長くこの地に根を下ろしていられるように、遠くから、あなたの幸せを、心から願っています。その山桜の木に向かい、手を合わせてきました。木というものは、単に枝葉を伸ばしているだけではない特別な存在です。このことでは谷内さんに、長いお便りを書かせていただきました。十代からの時間の中で、一番長いお手紙になったと思います。奥様の富代さんにもお手紙のことは共有していただいており、お目にかかった時に、富代さんも山桜のことを気にかけて下さいました。
そうして青山一丁目の事務所から銀座の路地裏の空間に、店に移る時がやってきまして、色彩の存在とその美しさを自分なりにみつめて日々のちいさなことを続けてまいりました。折々の谷内さんへのお便りは、やはり急ぐ用件などもなく、古い裂の好ましさや、やっぱり夏は熱海に行きましたとか、一年一年紡がれてゆきました。

 

富代さんから谷内さんがお亡くなりになられたというお知らせを受けたとき、その実感も湧かないまま、ビルとビルの間から見える蒼く高い空を見上げました。ずっとフランスにお住いの谷内さんでいらしたので、日本との距離が、お亡くなりになられたということにも同じように働くのか、事実とは何か隔たりがあるような、距離があるような、本当は私は今でも実感が持てないでいます。そのうちにまた銀座の谷内さんの個展でお目にかかれるような気がしたり、毎年の夏の熱海行きのお便りをしないとなどと、そんなふうに一瞬心の中をよぎったりするのです。自分が十代のときから続く御縁ということに終わりはないと思っていますので、これからも心の中で、谷内さんにお元気ですかとお伝えさせていただくことでしょう。そうして自分がもっともっと年を重ね、いろいろなことをするのが億劫になるときがやって来ても、時折『ぼくだけの にんぎょう』の頁をめくり、放課後の美術室の先輩たちの面影や、ポストの底に斜めに落ちていた、初めて頂いたお便りの時のうれしさを、風のゆくえを辿るようにして、時には思い出したいと思います。

 

長い道草をいたしました。記しておきたいこの度でございました。

 

お読みくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

谷内こうたさんへ

 

谷内さん、お元気ですか。
今年も日本は大変な猛暑です。
安曇野には行かれませんでしたので、東京展に伺ってまいりました。
私は「宿の裏庭」にとても惹かれました。
あの山桜に似ています。

 

谷内さん、空の上ってどんなですか。
あの刻々と変わる素晴らしい色、その色を手で掬えたりするのですか。
『つきと あそぼう』みたいに、月を鞠みたくできるのでしょうか。
色を巡って、お出かけされて、きっとお忙しく過ごされているのだと思います。

 

谷内さん、店を引っ越ししたのです。
お隣のビルでも引っ越しは大変です。
どうかこれからも頑張れますようにと思います。

 

暑いので御身体御自愛くださいませ。
早く涼しくなって虫の音が聞けるといいです。

 

またお目にかかれますように。

 

 

2023年 なつ
田部浩子

 

 

 

2023.8.7

古裂古美術 蓮
田部浩子