岩手県平泉町の中尊寺金色堂に眠る、藤原秀衡の棺中に納められていた美麗な組紐の存在は広く知られているが、三代の各棺内と忠衡の首桶からは、合計して63種の断片裂が出てきたという。昭和25年に行われた学術調査に於いて、その報告書『中尊寺と藤原四代』(中尊寺学術調査報告 朝日新聞社編 昭和二十五年)の中で、毛利登氏は遺品の少ない平安時代の染織品について貴重な報告をされている。その時に行われた多岐に及ぶ学術調査の中で、興味を引かれたものに、植物の種のことがある。
それぞれ三棺の中には長年に渡るごみ、そしてそのごみとともに、じつに多くの植物の種と草木の葉や茎が混在されていたという。
中でも秀衡の棺中(当時基衡とされたが後に秀衡と判明)には植物の種が最多量にあったそうで、この種はヒエであり、種についての調査には古代ハスを開花に導いた植物学者の大賀一郎氏があたっておられる。
ほんとうに長い年月、なぜ秀衡の棺中にその量一升以上ものヒエが散り敷いて在ったのか、そのヒエは過去の開棺時からの不思議な存在だったという。
江戸の文久三年の文献には、「稗殻のようなるものにて棺をつめたり、」と記されていたり、判然としないまま棺の「詰物」や「敷物」などとその後も見聞記に記されてきたというが、この調査によって答えが整理された。
大賀氏は報告書の中で、「元来基衡(秀衡)の枕の中に入っていたヒエが、枕の破損に伴い棺中に散乱したため、先人が棺の詰物や下敷きと誤り伝えたもの」であることを明確にされた。その粒径は約二ミリ、表面は黒褐色に変わっていたということも。多量のヒエは、800年近く前に枕が縫製された時から棺中に保存されていたことが明らかとなった。
各棺内には多くの植物の種、オニグルミ、モモ、ウメ、カヤ、クリ、シラカシ、アブラチャン、エゾノウワズミザクラ、ウルシ、イネ、ヒエ、このほかにもジュズダマやススキの花などが報告されている。これらはねずみが運んできたもので、そのことが意味する先には、中尊寺附近の環境と長い間の自然形態が見えてくることに考察は拡がる。
散り敷いていたヒエには種の中のでんぷん質が全く無く、棺内から採取されたねずみのふんからヒエのもみがらが見つかっていることから、ヒエの中身はねずみ食べものになっていたことが考えられ、つまり、枕の中にあったヒエは空状態ではなく、発芽内容物のある種の状態のまま詰められていたことに辿り着いた。そして大賀氏は、空ではない発芽内容物のある種そのものを枕に詰めたことは「服飾史上興味ある問題であろう。」と記し置かれている。
“服飾史上興味ある問題であろう。”というその言葉は、染織品との関わりの中ではつねに視野を拡げるべきだと、対象物に向ける意識の置きどころといった点で、宿題を置いてもらえているようにも思える。
植物の種を染織品に付属させて使用、服飾品とした例は、枕以外でほかに何かあるのだろうか。
他の美術工芸品と比べ、保存が大変困難で遺品が残りにくい染織品、繊維品の研究の中には、解明が遅れ整理されていない隙間の部分がまだ多くあると聞く。現品の新たな発見や染色方法、組物工程の解明など、染織の分野には、きっとまだまだ大きな発見が控えていることだろう。
調べたい資料探しの中で時折り行き当たることは、その筆者がわからなかったことは、「わからなかったこと」として、そのまま率直な言葉を置いておられるということ。その意義はとても大きくて、いつの日か後から続く人にとり、それが思いもよらない何かの枝葉に結びつくシグナルとなることが、大いにあると思う。解明できなかったことは問題定義として意味深くきちんと受け継いでゆかれ、何十年後であったとしても、次に成してくれる人が必ず現れる。研究者の方々が開示して伝えてくれる研究調査内容の報告や結果、積み上げてこられた功績は、素晴らしい文化財だと思う。
梅雨前の青葉の季節に、グリンピースを買った。
さやをむいていたら丸々ふくれて並ぶ豆のうち、端から三粒が揃ってまるで造りもののように、そっくり同じ状態で発芽していた。三粒とも同じ長さ、同じ角度の白い根をくるっと見せていて、豆はおどろくほど力がみなぎっていた。豆には豆の時間があって、さやの中で発芽の時を迎えていたということ。
発芽したグリンピースを見ていたら、そういえば、と枕のヒエの話しを思い出したのでとりとめのないこと、綴りました。
白い根のグリンピースはどうしたものかと思ったけれど、みなぎる力を頂くべく、三粒は炊飯器の中に落ちてゆきました。
2015.07.19
古裂古美術 蓮
田部浩子