靜かに音せぬ道場に、佛に花香奉り、
心を靜めて暫くも、讀めばぞ佛は見えたまふ

 

『梁塵秘抄』 一〇二 *

 

この今様を読んだ時、遠い昔にこの詞章を書きとめた人の、道場を独りおとづれ、祈りの時につく所作の音が、そこに聞こえているように思えた。
磨かれた床板の、きしむ音。
佛花器に注がれる、清らかな水の音。
身につけたころもの、衣擦れの音。
静かに音せぬということに、多くの音が、聞こえてくる。
佛に奉る花を手にして歩くこの人の、道場までの心の道のり、この人だけの静寂な時間とその人影が、今そこを通り過ぎていったようだった。

 

この人がどれほど佛に憧れを抱き、佛を尊び、慕っているかが、深く表れている。
形の見えないものを信じる力。こうも信じることができるのか。
信仰というものが身に無い私は、この人の無心の境地の存在こそが、佛というものなのかと胸をかすめる。

 

この道場の外は、音がしていないと錯覚するほど、蝉の聲が響き渡っている。
暑い夏の日の午後、この人は祈りを終え、佛に逢えたうれしさにいて、来た道に風を感じながら心満ちて帰っていった。
私の中ではこの今様にある季節は夏だ。私にはこの今様と蝉の聲が重なる。
この詞章が書かれたときの、ほんとうの季節は知る由もないけれど、夏の暑さをくぐり辿りついた道場の、稜線を見るような鎮まりようが想われたから。

 

数年前の真夏のある日、京都のお寺を訪ねたことがあった。
その日京都では、その夏の最高気温を示していた。
高名なそのお寺は猛暑からか、嘘のように拝観客がおらず、自分一人広い本堂に立った。午後の暑さはピークで、丁度時間の隙間だったのだと思う。
本堂をとりまく山側の緑からは、ものすごい蝉の聲が動かず聞こえ続けていて、それでも水の中にいるように鎮まり清浄の満ちている本堂は、音が何も聞こえないのと同じ位置に在った。その空気の記憶と、この今様の音せぬ道場とが、自分の中で時間移動して重なったから。

 

平安時代の誰かが遺した詞の中に、今もこの人がずっといる。
道場の静けさも、見えたのであろう佛も、この詞の中に、ずっと在る。
ずっとこのままで、この人も、佛も、しあわせだと思う。

2016.08.11

古裂古美術 蓮
田部浩子

*『和漢朗詠集 梁塵秘抄』日本古典文学大系 岩波書店 昭和四十年