政府から発令された緊急事態宣言が解除され、日常の時間が少しずつ戻ってまいりました。風薫る五月も本日でお仕舞いです。
今日はひと月の最後の日。月の終わりはおからを炒ります。いつも月末は出張なので、月末におからを炒るなんてことを長い間していませんでした。移動の自粛から、今回久しぶりにステイホームの月末が続きました。
自宅近くに昔ながらのお豆腐屋さんがあり、風通しの良い店先に、いつも丸めたおからが売られています。衛生的にビニール袋に入れられて、野球のボールよりもずっと大きく、丸々と整えられて5つほど並べられています。飾り気のない暮らしののどかさが感じられて、いつ見ても心安らぐ光景です。
自粛中郵便局に行くたびに、お豆腐屋さんの横を通り過ぎては、丸めたおからが気になりました。用事を済ませて戻ってくると、おからの数がひと玉無くなっていたりします。ある日は夕方に通りかかると、ひと玉だけがへこんだアルミのお盆に乗っていました。お店のシャッターが下りるまでに売れてくれるかな、と形になりきらない言葉というのか、意識が淡くよぎり、このおからの救世主になろうかと心誘われつつも、深夜までには片付けたい仕事の続きを思って、おからの横を通り過ぎるのでした。思えば普段はこうした光景に出合う時間帯に自宅におりませんので、暮らしの中の時間をしみじみと感じられたのかもしれないです。
月末におからを炒るのは、「炒る」ことを「入る」ことにかけて、「来月もいろいろなものが入ってきて、暮らし向きが空になりませんように」という、願掛けとも縁起かつぎともわからない、それで月の終わりの日にはおからを炒るのだと聞いています。調理方法は煮るとも異なる、炒りつけるような形になりますが、私の年季ではなかなか一度の味付けでお味は決まってくれません。そしてこんなにできてどうする、というくらい、山盛りのお鍋の中を見つめることになるのです。
この月末は日曜日に当たるので、お豆腐屋さんがお休みなことに気付いて、月末には少し早い、一昨日にひと玉求めて炒りました。写真は買いたての丸いおからを、古染写しの伊万里の器に移したところです。実物はもっと白いのですが、夕陽のせいかクリーミーな色彩に撮れてしまいました。
おからは卯の花ともいいますが、「卯の花」はちょうど今頃の初夏の季語にあたるので、涼し気なガラスの小鉢などに入れると、常のものにも季節感が感じられそうです。
おからを炒って、月末と月はじめの暮らしの区切りをささやか味わうことは、何か一人遊びのおままごとめいていてちょっと愉しい気分です。誰に伝えるでもなく流れゆく日常の時間に小さく感謝したくなるような、月の終わりのおからです。その味わいを裂の手触りに例えるとすると、上等な絹の裂地というよりも、手紡ぎ糸の木綿裂のやさしい風合いでしょうか。
ちなみに私のおからの出来ばえは、ふつうの上といったところでした。
まもなく水無月です。梅雨の六月がやってきます。
2020.5.31
古裂古美術 蓮
田部浩子