立雛 江戸時代

江戸時代は振り売りの雛売りが二月末頃から三月二日まで、雛人形と雛の道具を売り歩いたという。
振り売りされた雛は大店で取り扱われるものより安価で、庶民の手に届く範囲のものだったかと想像するが、その商い品は全て新品のものだったのだろうか。
それとも不用になったり古びて傷んだ雛に修理の手を入れたりして、新品の雛人形とともに荷われて再び売られたりもしたのだろうか。
行商としての雛売りは明和頃までだったそうで、その後はしだいに店売りの雛市へと移行していったらしい。
雛市においては、仮設店舗を設置して営業した出小屋の雛屋では、新品を扱いながらも中古品の雛を商っていたことが考えられるらしく、それから思うとなおさら振り売りの雛売りは、その荷に新古入りまじえていたのではと想像できる。

 

雛店で花見に行ヵぬはづにする(明三桜4 四17)

 

幼い娘が店で雛をほしがるので、花見にはゆかぬぞなどと約束させて買ってやる。
明和のこの句は店先でせがまれた末の、くるしまぎれの光景のよう。
そうは言っても可愛い娘のこと、きっと花見に連れていったろうと、おちを想像してしまう。
一家の大蔵省である父親と幼い娘とのこういった微笑ましい光景が、あちらこちらで展開されたであろう江戸の雛市のようすは、さぞ人びとの心に春を呼び込んだことと思う。

 

一方庶民によっては店に並ぶ雛などは高嶺の花で、紙を折り畳んだりして雛人形を作り与えた暮らしも多くあったはずで、愛情籠もった親の手作りの雛人形だって多く存在したはずと思うのだが。
そのようなものは消耗されてしまい遺ってゆきにくいので、現存自体が稀なことからかえって貴重な資料として探したくなる。
穢れを祓い川や海に流される場合なら遺ることもない。

 

東京メトロ「三越前」駅の地下コンコースの壁面に『熈代勝覧』(きだいしょうらん)の複製絵巻が常設展示されている。
『熈代勝覧』は、江戸の文化二年における神田今川橋から日本橋までの間の大通りおよそ七六〇メートルの町並みを克明に描いた一巻の絵巻で、大通りから入った横丁の路地裏の実状や、延々と続きゆく町屋の商家の繁盛ぶり、描かれた絵図からは喧騒が聞こえんばかりに大江戸を行き交う武士や町人、商人、庶民と、犬や馬、牛に猿に鷹二羽も、町中を流動するあらゆる階層の人びとの多様な動向があふれる豊さで伝え描かれている。

 

この絵巻は一九九五年にドイツ・ベルリン自由大学の生物学教授で中国美術収集家のハンス・ヨアヒム・キュステル氏と妻インゲ氏が親戚宅の屋根裏部屋で発見、その後は夫妻の中国美術品コレクションとともに寄託し、現在ベルリン国立アジア美術館が所蔵している。絵巻の題簽にある題名の『熈代勝覧』は、「熈(かがや)ける御代(みよ)の勝(すぐ)れたる大江戸の景観」の意味だろうといわれている。
絵巻についての詳細は今省くとして、『熈代勝覧』に見られる中にはじつに多くの業種の商いのようすや振り売りする商人の絵姿を確認することができる。

 

この『熈代勝覧』に先の江戸の雛市のようすが賑やかに描かれており、十軒店(じっけんたな)に立つ雛市のその一角は、まるで花が咲いたように華やかで、江戸期の雛人形が勢揃いしているようすが見てとれる。
出小屋に見える赤い雛段にはいろいろな立雛と坐雛が。
裃を着た人形は五人囃子か、雪洞や白酒を入れる雛徳利も行儀よく並べてある。
遠目に衣裳に見られる緋色は、紅花染の紅絹(もみ)かちりめんのはず。
なんとまあ心浮き立つ出小屋なのか、小屋の隣りでは桃の花売りが、簡素な竹棚をしつらえて桃の枝を挿して売っている。
十軒店は現在の日本橋室町三丁目辺りだそうで、町屋の大店の雛屋では桐箱付きの上等な雛人形を扱っているようすが見られる。

 

「三越前」駅を通りかかることがあると『熈代勝覧』を見るために地下コンコースに立ち寄って、しばし江戸に流れる時間を眺めて楽しむ。
複製絵巻の常設展示場はシックな造りで地下コンコースでも人目を惹く。
興味深さから見ていると時間を忘れてしまって三十分などすぐに経ち、あわてて引き上げることが多いのだが。
天秤棒に着物をかけて上から日よけの大風呂敷を覆い、横丁の路地からひょっこり出てくる古着屋を見つけると、「いたいた」と思う。
古着屋はほかの通りでも幾人か見つけられ、当時の生活上欠かすことのできない位置にあった古着の相当の需要と流通を考える一端にもなる。

 

草木から染められた色の衣裳をまとう江戸の雛人形たちは、雛市が立つ石町、十軒店、本町、尾張町、人形町、浅草茅町、池端仲町、牛込神楽坂上、麹町三丁目、芝神明前など江戸の各所で売られていった。
そうして各家々へ、人から人へ、壊れないよう大切に扱われてきた江戸の雛が、今も時の片隅から姿を現してくれる。私たちに春のおとづれと人びとの祈りを伝えてくれる。
今街の店先では雛あられの彩りに春が降り立つ。

2016.2.24

古裂古美術 蓮
田部浩子

参考文献

・『江戸の生業事典』 渡辺信一郎 東京堂出版 1997年
・『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』 浅野秀剛・吉田伸之 編 講談社 2003年
・『活気にあふれた江戸の町『熈代勝覧』の日本橋』小澤弘・小林忠 小学館 2006年
・ 名勝「日本橋」保存会 / 日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会発行リーフレット
・『国文学解釈と鑑賞 第二十八巻 第十四号 川柳・年中行事』 至文堂 昭和三十八年