藍木綿 江戸時代

今年は夏の終わりからのお天気がすこぶるわるくて、秋は数えるほどの晴れ間がみられただけで、季節は冬へと移りかわってしまった。
続く長雨で手洗いした裂を部屋干しする日がほとんどだったので、今も出掛ける前までは窓を細く開けて室内に残る湿気を少しでも逃がしている。
いつになったらお日様が照るだろうと、気分も曇りがちな雨の朝裂を洗っていたとき、大昔の古代や中世の女性たちもこういうときには家の中で部屋干しをしただろうかなどと、つい思ったりした。

 

遠い時代に生きた庶民階層の女性たちの、衣食住にかかる忙しさとその労働は大変なものだったと思う。
「衣」に関してだけでも家族の衣服を調製するにはゼロからの、まず糸を作ることから始めねばならず、そのためには麻や楮など糸となる草木皮の繊維を必要量用意しなければならないので、それらの植物を栽培したり野山に採取しに出かけたりもする。そうして大変な手間をかけて糸を作り、それを機にかけて布を織る。織りあがった布はようやく衣服の“素材”となって、素材段階の布でいよいよ形を成す衣服を仕立てる。着古して傷んだ衣服は繰り返し繕いをほどこす。洗濯にでかける…

 

洗濯は十分な水量がなければ汚れが洗い落とせない。
往時は今のように家に居ながらにして水を常時使い続けることなどできなかったので、自分が暮らす敷地内に川や井戸を持っていないかぎりは、家から一番近くの川や泉がある水辺まで洗濯ものを持って洗濯仕事に出かけなければならない。
きっと雨の日にわざわざ川へ洗濯には行かなかっただろうから、そもそも雨の日は洗濯自体をしなかっただろう。すると部屋干しも…
…はるか昔の洗濯もようについて、少し触れてみたいと思います。

 

― 水のこと、清浄のこと ―

 

洗濯の行為における背景と、水に関する背景とは、深い繋がりがある。
古来より水には神聖なものが宿るとされており、それにもとづく信仰や伝承は世界各国に共通して伝わっていて、水そのものが信仰の対象となっている。
みそぎや浄めなどの儀式は水を以って心身の穢れを祓い浄める。
また、上代ではおもに入湯が医療法であったといい、温泉の効果に神霊を感じて温泉自体をご神体として祀ったところもあるという。
高温の熱い湯にもなれば氷へも変化する水。古代の人びとは神秘の力を宿す水に、神の内在と神の意志を感じとっている。

 

古い時代ほど「穢れ」の観念がつよくある。病も災禍も「穢れ」が起こしたものとされていたので、それらに見舞われないために様々な方法で、火で、水で、煙で、浄めは行われた。
汚れを洗い落とすという洗浄行為の根底には、穢れによる病や災禍からまぬがれるためにも不浄であってはならないといった観念があり、また、人間は神に仕える身であるから清浄を努めなければならないという意識が古くはつよく持たれていて、そのことから汚れを忌みきらい、清浄であることの清潔は尊ばれた。清潔は神聖であることを意味するのだ。

 

神代の昔から布を白く晒すことが尊ばれているが、より白く、いっそう白くと漂白方法が求められたことの、清浄を求める心を芯とした洗浄への関心の高まりとその在りかたは、そのまま“日本の洗濯の歴史”と言える。
今では洗濯の心も形も変わってしまったけれど、洗うという行為の源には、水が宿している神聖性と宗教的な“洗い浄める”というふたつの意識が底深いところに下敷きされている。

 

日本の水の信仰についてを深く追ってゆくと、「色彩」や「染め」、「草木」たちのことと神事や伝承をとおして繋がりをみせてくるようなので、「水」に関心を繋げておきつつ、ささやかながら触れてみた水や清浄のことについては、一旦ここで終わりにしておきたいと思います。

 

― 井戸のこと ―

 

水は生活に一日も欠くことはできず、初めのうちは川や水辺近くに集落を作り生活をいとなんでいた古代でも、そのうちに家々が増えてゆけば集落も拡がりだして水辺から離れた場所へも移りゆく。
それにともない水場の必需から地下水を掘りあてて、共同の生活水を汲み上げる井戸というものができた。井戸はその一帯に暮らす人びとの重要な水場であり、古代の人びとにとって井戸は神でもあったという。
日本では掘り井戸の遺跡はすでに弥生時代からあって、奈良県の唐古遺跡、福岡県の比恵遺跡、静岡県の登呂遺跡などに弥生時代のものが発見されているという。

 

― 平安時代から中世までの洗濯もよう・足踏み洗いのこと ―

 

平安時代の洗濯は一般的にどのようであったかというと、絵巻物に描かれている光景をみてゆくと、洗濯ものを足で踏んで汚れを落とし洗う「足踏み洗い」が中心だったことがうかがえるという。中世の洗濯について記録された文献資料がほとんど無い一方で、絵巻物では当時の洗濯もようがストーリーの中に添景として描かれている。当時の日常風景として、というところが意義深いのだ。

 

例えば平安時代末期の『信貴山縁起絵巻』に描かれている洗濯風景では、街道の辻近くに井戸があり、井戸のすぐ横に割竹形をした大きな槽のようなものが置かれている。その中に女性が立ち、木桶に汲んである水を柄杓で掬いかけながら、衣類らしきものを足で踏み洗いしているようすがみられる。
この槽のようなものは「踏石」(ふみいし)と言われるもので、これが置かれ描かれていることで、井戸の横で足踏み洗いの洗濯方法が日常行われていたことがわかるという。中世の京都では、この踏石のことを「物洗いの踏石」と呼んで、町の人びとが共同で使っていたそうだ。

 

絵巻物ではほかにも、平安時代末期の『扇面古写経』、南北朝から室町時代の『融通念仏縁起絵巻』、『不動利益縁起絵巻』に同じく足踏み洗いの洗濯方法が行われているようすが描かれている。
それらの絵巻から見えてくることは、井戸は路上や裏庭に在るものだったこと、井戸の横で足踏み洗いの洗濯をしている女性の姿は、当時においてごく日常的な光景であったということだ。
なにか平安時代の庶民の女性たちの家庭の時間と生活がそこに縮図されているような気がして、その頃の一日の時間の中でみられる陽の移ろいや光の彩度、街道を渡る音といったものまで、たとえ想像であったとしても、その実在を感じてみたくなる。

 

人が往来する街道のさなかに井戸があり、そこで足踏み洗いの洗濯仕事をする。
自動車の音や機械音が一切しない平安時代の街道では、洗濯する女性の鼻歌が、柄杓で掬い掛けする洗浄の水の音とともに聞こえてきたのではないだろうか。
その鼻歌は『梁塵秘抄』にみられる今様だったりはしなかっただろうか?
時の中で消えてしまったという『梁塵秘抄』の今様の、詞章に伴われていたという曲節が、いきいきと謡われていた時代なのだから。

 

絵巻物に音の記録は遺されていなくとも、作者の絵師は、各シーンの筆を進めているときに音無き音を、どこか耳や胸の奥底に無心に置いて制作しているときもあったと思う。小鳥がさえずるように描かれていたりするのを目にするときなど、きっと絵師は胸の奥でほんとうに小鳥の聲を聞いている、そんなふうにこちらが思えるときがある。
また別に、足踏みするリズムに合わせて唄うような、素朴な洗濯の仕事唄などもその頃あったのではないかしら、などと思ってしまうのだけれど…
話しが横道に逸れそうです。

 

― なぜ足踏み洗いなのか ―

 

なぜ手洗いではなくて足踏み洗いが行われていたかというと、古代から中世の庶民の衣類は一般的には麻布や楮布など繊維のつよい生地であったから、手洗いでは取り扱えないので体重をかけて足で踏み洗いをすることが常だったのだという。
では手洗いは行われなかったのかといえばそれは考えられず、鎌倉時代末期の『石山寺縁起絵巻』の中に、たらいに手を入れて洗濯をしているようすが描かれている。絹などの何かやわらかい生地かごく小さなものを、ゆすいで洗濯しているのだろう。

 

中世では見られていた踏石も、江戸時代の初期洛中洛外図にある井戸端での洗濯光景には踏石は見られなくなっているそうで、それは足踏み洗いがしだいに行われなくなったことを意味しており、女性たちの洗濯方法が、足踏み洗い中心から手もみ洗いへと変化していったことが絵画の描写からわかると報告されている。それは着るものの素材の変化、木綿の普及など、手でもみ洗いしなければ生地をいためてしまう素材に衣服が移りかわったことの表れで、そこに中世から続いた庶民の衣生活と時代の大きな移行が読み取れるという。

 

― おわりに ―

 

平安時代や中世における庶民の洗濯は単なる水洗いがほとんどだったようですが、灰汁やさいかちの実などを使用した石鹸にかわる洗浄剤は、古く萬葉の時代からありました。
洗濯にかかわる萬葉の言葉には「ときあらい」や「さらす」などがあります。
お天気のよい往時の澄んだ水辺には、幾人かの顔ぶれが集い、思い思いに洗濯仕事にいそしんだ。そんな情景が古から消えずに伝わる日本の言葉から偲ばれるようです。

2016.12.8

古裂古美術 蓮
田部浩子

参考文献

・ 『洗う風俗史』  落合茂 未来社 1984年
・『日本洗浄文化史』 執筆 上野壮夫 落合茂 花王石鹸株式会社 昭和46年
・ 『東西洗濯史話』上巻 松本博 白洋舎 1942年
・ 「足踏み洗い」から「手揉み洗い」へ ―洗濯方法の変化に関する試論― 斉藤研一
  藤原良章・五味文彦 編 『絵巻に中世を読む』吉川弘文館 平成7年
・ 「家事の近世」 小泉和子 『日本の近世 第15巻 女性の近世』 林玲子編 中央公論社
 1993年