蓮の道草 #37

「山へ! to the mountains 展 」に行って

東京 世田谷文学館にて

 
「山へ!to the mountains 展」
この魅力的な展覧会タイトルに惹きつけられて東京・世田谷文学館に行ってまいりました。
 
“to the mountains ”
ひとは、この言葉に、どれだけの情熱を傾けてきたのでしょうか。
 
展覧会ポスターにみられる “to the mountains ” この言葉からは、「山」に焦がれる人たちの、輝くまなざしが伝わってくるようです。
展覧会図録に「山は、古代から人々のくらしと深くかかわってきました。ある時は人々に恵みを授け、ある時は信仰の対象として、人々の精神を支えてきました。」とあるように、古くから人間は山に祈りを捧げ、登山の風習で山へと向かい、そして修験道の修行の場でもありました。
 
この展覧会は山をテーマに、作家・登山家の深田久弥氏、植物学者・登山家の田辺和雄氏(陶芸家濱田庄司氏の実弟)、建築家・冒険家の吉阪隆正氏(ル・コルビュジェの三人の日本人弟子のうちの一人)、登山家の田部井淳子氏、漫画家の坂本眞一氏、随筆家・登山家の小島烏水氏、写真家・探検家の石川直樹氏ら七人のそれぞれの内における山に向けた情熱と、「山」というひとつの領域をおのおのどのように表現してきたのかを、貴重な資料を公開して丹念に追っている。
出品資料は直筆の原稿や37冊におよぶ山日記、書簡、スケッチブック、写真、愛蔵の地図、登山の愛用品、建築計画案模型等になる。吉阪氏が師事したル・コルビュジェが地中海の海岸で拾った石に絵を描いたもので、吉阪氏に渡したものとされる丸い小さな石も展示されていた。人物の顔がさらりと描かれていて、思わずペーパーウェイトに使ってみたくなるような素敵な石だった。
 
この展覧会が他と趣を異にしていると思えるのは、例えば絵画にせよ工芸品にせよ展覧された実物の、目の前にある作品が湛えている世界を感受したり、美しさの在りようや表現を自分なりに確かめたり、またほかの作品との比較を試みたり、かたちあるものとの対峙がまず展覧の目的となるかと思うのだけれど、この展覧会が目指したものは、山に生涯をかけた人たちの軌跡を関連品とともたどるといった点よりも、七人の情熱と信念を語り部として、七人の先にある「山」という圧倒的な大自然とその存在をあらためて日常に引き寄せて、人間にとって「山」とは何かということを問いかけている点の、その点にあるように思う。
そしてかたちある“もの”として目に見ることの出来ない、「山」にすべてを注ぎ込んだ人の情熱と信念の“目に見えないかたち”を展覧している、そのように感じました。
少し長くなりますが続けます。
 
会場に大きく示された、小林秀雄氏と交友の深かった深田久弥氏の文です。
「例へば骨董などもよい物を見る數が多ければ多いほど鑑賞の眼が肥えるさうだが、風景も亦同様だ。山登りの好きな人たちは素晴らしい景色をたくさん見てゐるから、風景鑑賞では玄人と言つていい。風景鑑賞の玄人は、素人の好きさうなパッとした表面の美しい景色に倦いて、次第に渋みがかつた落ちついた景色が好きになるやうだが、これは何の専門であれその道に深入りした人の必らず赴くべき道程であらう。例へば文學にしたところで素人はうはべの華やかな通俗小説が好きだが、段段文学の素養をつんでくるとそんなものには倦きたらなくなつて、もつと渋い高尚な小説が好きになつてくる。おそらく一般の人に瀧井孝作氏や嘉村礒多氏の小説を讀ませても、誰もそのいい所はあまり判らないだらう。それほど表面的な面白さのない澁い小説なのだ。同様に登山家が感心するやうな、例へば一見なんでもないやうに見えてその中におちついた澁い味を含んでゐる渓谷とか森林の風景を、一般の山の素人に見せても誰もそのいい所は判つてくれないだらう。」(深田久弥著 『わが山山』“風景に就いて ”262-263 昭和9年 改造社 より引用)
 
深田氏のこの文章は会場に大きく掲げられているのですが(会場では現代仮名遣いの表記)、まるで茶碗について語られているような錯覚を覚えます。
骨董を例としてあげられている一文には、日ごろ古いものの近くにいる身からすると受け取りやすい例えで気持ちに溶け込むのですが、そこからおのずと知れるのは「山」には登ってみた者でなければわからない、次元の異なる別世界と再びそこに必ず呼び戻されるような、人を呼び戻す強い引力があるということをあらためて感じ入りました。
 
おそらくどの人でも記憶の中の、心の山があると思う。
それは登山家が目指すような標高の山岳などではなく、想い出の遠足の山だったり、家族旅行ででかけた山だったり。幼い頃ススキをとって遊んだ裏山であったとしても、それは自分にとっての「山」である。
低地から歩みを進めて高みへと登りゆく行為とその時間の中に在るうちに、自然と心からは雑なものが去っていっていつしかそこに静かな空間が宿っていることに、ふと気づく。
「山」を対象として生まれくる人の心の働きと、人が抱く山への想いや憧れは、やがて情熱と結びついて人の信念を育て精神を高めてゆく。「山」は人の心までも高いところへと向かわせる。「山」は人に何をみせているのか。人は「山」に何をみるのか。簡単に導いてなどくれないそれも山の魅力なのだろうか。
 
「山」に生きた人たちの情熱と、「山」に対する動かぬ信念。
そびえる「山」に打ち込んだ人たちの時間に接して、時間ということを心に思いながら夕方の入館者もまばらな会場の静かさを、閉館間際まで巡った。
田辺和雄氏の手帳にはさまれた押し花にされた植物が、氏その人の手で青々と手帳に押された日が確かにあったことを伝えている。山から降りてきた押し花になった植物が、時の繋がりを教えてくれている。展示されている深田久弥氏の愛用のピッケルは、主の山行を今も待っているように休息していた。
 
現存する吉阪氏による十の山岳建築など見に行ってみたいものだけれど。
山の本の中の高山植物のお花畑を眺めている。
自分が想う、忘れることのない山を思い浮かべた。
高山に咲く細い一重の紫色のリンドウがそこかしこに群れていた。
人影のない朝焼けの、あの山頂に吹いていた風は今もあの地を吹き渡っているだろうか。
 
骨董も、何の分野も、隔てはない。
いちど限りの生の中で、情熱を注ぐ何かに出会えるということは、しあわせだと思う。
東京・世田谷文学館で9月18日まで開催。
 

2017.9.9

古裂古美術 蓮
田部浩子