蓮の道草 #7

裁縫と“をさな”と“おとな” - vol.2

裁縫の姿

古く裁縫の姿をみてゆくと、技能の追求が前面にあるといったことよりも、技能を支える精神性について説いていることに多く行き当たる。
江戸時代はもとより中世に於いては、裁縫の習得に向かう意識が独自に凝縮され、それは単に“実用品の作製工程の習得”とは言い難い、そこには裁縫をとおして教養を高め、精神の向上と深みを目指す修行を積むことの結果、技術も向上する、といった理念が敷かれているという。
単なる“実用品の作製工程の習得”と何が異なるのかといえば、その工程と裁縫作品の完成を果たすに際し、物縫う技能に重ねる心持ちと求められる美的情操、技芸を身につける深い精神性の取得という点にであって、宿す意識に明確な起点がある。実用性をも超して裁縫作品が美しい芸術品として鑑賞され得るということは、その工程は芸能的性格を含み、それは言い換えれば裁縫をとおして行われる「芸能教育」であるという。

中世人の裁縫観の裡に深く根ざしているものは、技能の習得を通じて精神の深化を目指すという、日本独特の、そして、古来より日本人の中に息づいている精神的な道ということなのだろうか。
少し横道にそれてしまうが、そうすると、その結果に完成した「衣」には、高い精神性が宿るといったことにも結びつくはずなので、縫い上げられた衣には籠もる何か、“目に見えない力”があるとされた信仰とも自然と結びつき、衣は隅々にまで加護を浸透させて身体と意識、魂を包み込み、着用者を禍から護ることになる。往時の信仰に思いを寄せてみるなら…であるが。

それにしても人間の営みが始まるのと時を近くして生まれた裁縫という行為のはずなので、歴史があまりにも深すぎて、照らす光が底に届かない。
様々な歴史や文化には深さがあるといったことには至れても、その深さの実態をつかみきることなどそうできなくて、自分が手を伸ばした暗がりの、ほんのわずか先にしか近づくことができない。
ただうっすらとわかるのは、裁縫の無垢な姿は、とても力強いということ。

2015.07.19

古裂古美術 蓮
田部浩子