蓮の道草 #39

節分が過ぎて

春が来る

 
節分の前の日、東京は少しだけ雪が降りました。
その日は朝9時からの予定があって、暖かい仕度をして出かけました。
 
地下鉄の出口を出て、傘をさして目的の場所に向かっていると、固くてこまかな粒の粉雪が風にあおられてマフラーやかばんに降ってきます。傘をさしていてもなんのその、風のままに雪の白さがあちらこちらに降りかかります。
この前のような大雪にはならないだろうという心持ちがあったので、交通への影響も今日は大丈夫と思いながら、15時頃までには店に戻れる算段の、その日の予定ごとを思い浮かべながら歩いていました。
 
交差点からわりあい歩いて暫くすると、先程より雪が降りしきってきました。
私は着ているピーコートの腕をわざと傘から出すようにして、肘を曲げてみました。濃紺の布地に固くて小粒の粉雪が、ころころと弾んでは落ちました。
こういう雪の時は見えるかもしれないんだと思いながら、曲げた濃紺の肘をちらちらと気にしながら歩いていると、ごま塩の塩ような固さのごく小さな雪の粒が混じり始めました。ああ、見えた。懐かしい懐かしい形。雪の結晶です。
完璧な形ではありませんでしたが、それでもきちんとひとつだけの形を保って降ってきた、いくつかの雪の結晶を見ることができました。
 
目的の9時の場所はもうすぐそこでしたが、行きかう人がまばらだったことをいいことに、かばんからこっそりとルーペを取り出しました。倍率が10倍ほどの簡単なルーペは、糸や裂を判断するためにいつも持ち歩いている小さな道具です。ころころと衣服の上を弾む、固くて水分の少ない小粒が溶けないうちに、濃紺の肘に受けた真白な雪の結晶を息を止めてルーペでのぞいてみました。
行きかう人の多いところでは、人目を気にしてちょっとできませんけれど。
 
それは心の底からため息の出る美しさ。このような自然の美しい形がこうして今空から降ってきていることに、たまらずおさえきれず、口パクでウツクシイ、ウツクシイ、と傘の中でこぶしをきかせて唱えてしまった。肉眼で雪の結晶を見たのは、もう何十年ぶりのことでしょう。ルーペで見ている束の間次には、その美しい形は氷とも水ともいえない透明さで光ってゆきました。
 
遠い昔、雪の結晶について授業で習った時のこと。私はまだ一度も雪の結晶を見たことがありませんでした。それからそう日にちも経たないある日の帰り道に、雪が降ってきました。その雪はたいへん小粒な粉雪で、衣服に降ってはじんわりと溶けてゆかず、ころころと弾むのでした。何となく普段の雪ではない思いでふと気がつくと、驚いたことにいくつもの異なる形をした美しい雪の結晶が腕の上に、はっきりとしっかりと見えたのです。しかもその結晶はある程度大きさがあってすぐには溶けない雪でした。
 
いろいろな形をした結晶が、こんなにひとつづつ、見て形を写せるほどくっきりと。黒いオーバーの腕の上に、本物の雪の結晶が模様のようにこんなにたくさん。
あのようにはっきりと、振り払っても美しい形がころころと転がり落ちるほど完璧な雪の結晶と出逢ったのは、遠いあの日のあの時一度きりです。
雪の結晶って何角形もしているんだ、先がギザギザのも、お花みたいのもある。
きれい。そうしっかりと目と心に刻まれた、雪の結晶の思い出です。
夢よもう一度。小粒の粉雪が降る時は、傘から腕を、肘を、出してしまうのです。
 
その日、日陰の道の脇には雪がうっすらと残りました。
翌日の節分に用意したヒイラギの小枝は、葉が落ちないように紙に包んで店に持ってゆき、店のドアに掛けました。閉店後、窓とドアをちょっと開けて、鬼は外、福は内、と豆を撒き、無事に節分を迎えられたことに満足して小さな空間を見渡しました。長いこと店にいる、大きな黒い馬の玩具に向かって「明日は立春。この一年もヨロシクね。」と気持ちの中で声をかけ、電気を消してドアを閉めました。
 

2018.2.6

古裂古美術 蓮
田部浩子