茶地小格子紬裂 江戸~明治初頃

 
暮れゆく今年最後の一日、今日は大晦日です。
予定していたはずの大掃除までとても行き着けず、室内の、せめてもの場所だけ上に積み重なっているものを移動(移動、、)させて掃除したような気分になりました。
用を済ませに外へ出ると、もうお店は閉まっているところが多く、閑散として冷たい空気の中、郵便局に出かけました。案外鳥の聲が響いて聞こえます。
年内にはあれもして、これもできていない、などと思っていたつい先週ですが、どうしてこうも時間が早いのか、ゆく年を想う、除夜の鐘まであと数時間です。
 
今年もルリスタンの小さな鐘を出しました。
以前も記しましたが、釣鐘形の、小人が叩くような小さな鐘です。
舌が欠損していますので、鳴らない鐘ですが、私はこれを自分の除夜の鐘として大切にしていて、毎年大晦日に飾るのです。ごく小さなこの鐘ができたとされる、紀元前2世紀頃には、どのような音を立てていたのか、細く高い鐘の音であったろうかと、想像するだけで終わります。舌が付いていた跡がみられます。鐘のてっぺんには四つ足の、これまた小粒の動物が、しかと立っているのです。
 
少しも音が出せなくなっても、音を鳴らすために作られた道具というものは、目にしてすぐに音の存在を連想できるもので、それゆえ「音」をそこはかとなくまとっているように思われます。音は、立てた次には消えゆくものですから、このルリスタンの鐘も、今はせずとも遠い昔に消えていった音を想い浮かべることで、音を鳴らすという役目を変わらずにまだ担っている、などと、室内の片隅に置かれた鐘に時折り目を向けては、今宵の除夜の鐘の音をふと想い浮かべます。大晦日だけ小箱から出される、自分の持ちものです。
 
お寺が鳴らす鐘の音、大晦日の除夜の鐘の音は、一年で特別なものです。
笹本正治氏は「日本人が梵鐘や鈴、鰐口、御鈴などの音に感じてきたのは、雷(神鳴り)が他界で作られた音なのにこの世で聞こえるように、人間の世界を越えて他界へも届く神秘性であった。」と述べられており、「時刻は天体の動きを人間が生活をするのに都合よく読み取ったものであるが、明け六つや暮れ六つの鐘の音は、神仏の活動する時間帯と人間の活動する時間とを分ける役割を持つ。したがって、時刻を告げる鐘の音はこの世とあの世の双方の住人に報せる手段だったといえよう。とするならば、除夜の鐘にも人間と神仏との双方に伝える特別な意味が込められているはずである。旧年と新年を分けることを人間にだけ伝えても、実効性はない。神仏にも伝えることによって、本当の新年になる。」と除夜の鐘や日本の音について書かれています。身近に感じられる日本の様々な音について、背景にあるものを追ってゆくことも、大変興味深いことです。人間と「音」との関係と、人間と「色」との関係は、とても近い次元にあるような気がしており、色も時間とともに移ろいます。空の色、自然界の色がそうです。
 
何だか忙しなく過ごしてしまい、暫く海へ行けていません。
波の音、あれはほんとうに心を洗う、いい音ですね。すごく複雑に、たくさんの音と音が重なりに重なって、気の遠くなるほど遠い沖の向こうから来た波の、最終の音が打ち上げられている音です。
浜辺をただ歩いて過ごすこと。気が済むまで長く波の音を耳にしていると、癒されるというよりも、自分が直されてゆく、そんな広い感覚を受けるのです。
早春や秋、とくに冬の海が、空気も空も澄んでいて、やはりいいです。そうとう寒いですけれど。北風のつよい、真っ青な空の冬晴れの日に出会うと、海に行きたくなります。
 
今年は蓮25周年の年でした。
秋には御蔭様で、無事に25周年記念の記念展をおこなうことができ、多くの皆様にお越しいただきましたこと、心より、感謝申し上げます。
いつまで、どこまで続けられるのかわかりませんが、これからも美しい裂の世界を追いかけたいと思います。新たな年も、どうぞ古裂をよろしくお願い申し上げます。
本年も皆様ありがとうございました。

2018.12.31

古裂古美術 蓮
田部浩子

引用文献

笹本正治 「除夜の鐘などをめぐって」 『本』 講談社 2008年5月号