重い荷物を下ろし玄関の鍵を開けようとした時、カラカラと乾いた音が背後から聞こえてきた。
振り向くと、それは一枚の大きなユリノキの葉で、足元に置いた風呂敷包みの荷に当たって行き止まった。近くの公園から風に飛ばされてきたのだろう。
紅葉を待たず、落ち葉になった葉は乾燥して丸まり、そこに残る風に掌ほどの大きさを左右に揺らしていた。部屋に入りながら秋が来たな、と思った。

 

季節の訪れ、という。「おとづれ」という言葉には、耳に届く音の存在が、そこはかとなく連れ添われている。
木戸の音や物音を立てる、その「音」が、待つ者にとり訪問の知らせとなるありようから、音のともないが言葉の肩にそっと掛けられている。
一日の早さに日々を過ごしていたら、秋はいつの間にか海に山に、街に、月夜の空に、おとづれていた。

 

四季の中秋や冬は、意識が音へ向かうような気がする。
ちょっとした音が増幅して心に届く、そんな時なのかもしれない。
木枯らしが吹きつける、風の音に。鍋物が炊き上がる、温かな音に。
火の用心の拍子木の音と呼び声に、ふと時計に目を移す。
「音」がこちら側の感覚と機微に触れ、気持ちを動かす。
音には魂が宿るのだといわれる所以か。
染料になる草木たちも今、自らの内なる循環を季節に添わせ、本質のままに個々の生を変化させている時だろう。
梅も桜も、花の時を待って、その樹木に深々と神秘を起している。

 

秋が深まりゆく頃、今年も奈良の正倉院展がはじまる。
今展には手芸や裁縫の上達を祈願する七夕行事の乞巧奠(きっこうでん)で使われたとされる、銀や鉄で作られた針や、赤、白、黄色の縷(る・糸)が出陳される。
千年の時に在り続け、大切に守り継がれてきた縷と、その華やかでいきいきとした色彩が目にできることを楽しみにしている。
冬がおとづれる前の奈良は、この国の宝ものを見ようと全国からの人でにぎわう。
集う鹿たちも、つぶらな瞳をぱちぱちさせてカメラにおさまる。

2015.10.14

古裂古美術 蓮
田部浩子