蓮の道草 #24

天は海

渚に映る日輪 鎌倉由比ヶ浜

薬師如来に関して知りたいことがあり本をたどっていると、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)に載る薬師信仰をふまえた今様に行き当たった。
その今様で謡われていることに素朴な疑問を抱いたら、ページを進めていても、何だか気持ちがつまづいてきた。
気をつけてみると、ほかの今様の中にも同様の表現がいくつか見られる。
極楽浄土へ向かうには「船」でゆくという、その船についてが気になった。

『梁塵秘抄』は平安時代末期に集成された歌謡集で、後白河院が身分の低い階層の間で謡われていた歌謡を編纂したことにより、それらの詞章が後代に伝えられることとなった。今様と呼ばれる歌謡は当時の流行歌になる。

仏の教えが庶民の信仰の軸と成り、底辺に日々を送る人びとが病の苦悩や衣服飲食にも困窮する現世の苦しみから救済されて、理想の未来、来世浄土に迎え入れられることを切に願った時代にあって、極楽往生できる者は貴族のしかも男性だけとされていたという。
貴族と庶民、階級差や男女の違いも無く、平等に極楽往生できることを人びとは両手を伸ばす思いで希求した。
難しいお経を唱えられなくとも、仏の慈悲の心が籠められた今様を謡うことによって仏と縁が繋がり加護が得られ、花降る浄土に導き入れてもらえる願いが叶うと信じられた。その浄土に向かうは「船」で渡るのだという。

海の彼方に理想の「神の国」があるとされる信仰は古来よりある。その浄土へ渡るなら船はわかるが、天の浄土へゆくイメージの場合でもなぜ船なんだろうと、自分が常識にとらわれていることをわかりつつも何か「船」が引っかかる。
その後何となく「天」や「船」を気にしていたら、薬師信仰から離れた今様ではっきりと天が海であるイメージの詞章と出会った。

月は船星は白波雲は海、如何に漕ぐらん、桂男は唯一人して、(四五〇)

「月は船、星は白い波、雲は海だとしたら、どうやって船を漕ぐだろうか、月に住む桂男は、たった一人なのに。」(*より引用。この歌の原歌は万葉集巻七・一〇六八と巻十・二二二三の二首とされる。)

『梁塵秘抄』に親しまれている方であれば、謡われている内容に現実感を持って面白く味わえるのでしょうけれど、私の場合難しくてとてもそこまで辿りつけない。
それでも『梁塵秘抄』の詞章を読んでみると、最下層に生きる人びとの真っ直ぐな願望や生活的な匂いが感じられて、謡われる短い中に人生の情景が映されていて難しくても純な力強さの表れに、何やら静かに惹き込まれる。
詞章に伴っていた曲節は時の移ろいの中で消失してしまった。探りようがない消えた音にもロマンを感じる。
思えば音の歴史を後代に伝え遺してゆくことは容易ではないのだろう。
生じたとたんに消えゆく儚いその音を、人の内面にとどめて固定化し、記録を再生し続け遺してゆくということは。

ともかく先の詞章にお目にかかれたことで、薬師信仰の今様で抱いた「船」への疑問が軽くなり、平安時代の人びとは天を海と観るそうした観念があったこと、その感性の一端に少しだけ触れることができたような気がして、ささやか開放感が感じられた。また、仏の教えの上から空と波にとても深い意味が籠められている今様もあった。
今持つ感覚を掃わずに古代や平安時代を捉えようとすると、全然違って近づけないとも、ちょっと思ったり。

星を白波と見るきれいさには、平安時代の夜空は天からこぼれ落ちてくるように星々がひしめき合っていたのだろうなと、その天空を思い浮かべてみる。
でも闇に浮かぶ夜空だけを見て、そこに海を想うものだろうか。

私は空の青さを思い、きっと平安時代の人びとは、広大な空の青さに海の青さを重ね見ただろうなと思った。
青い空のその海が、夕暮れ色になり、やがて闇が空を覆えば、そこに夜の海も重ね見たのだと思う。天の夜空からこぼれ落ちてくるほどの白い光の星々に、真暗闇の沖に見え立つ夜の白波を想っただろう。
その時代旅に出られる人はごく限られていたし、海を見たことのない人は多くいたはずで海はどこまでも広く、青く、彼方まで続いているのだと聞けば、海を知らない人は青い空を見上げてそこに海を感じようとするのではないだろうか。
空は、天は、海となる。

現代の意識では、空は空で、海は海。見たことのないものが少なくなりつつある今、想像の膨らみ方もその到達点も、画一的になりがちだろうか。
古の人びと、中世の人びとは、その時感じたことを直感的に捉えてそこにまだ見ぬ様々なものの「実在」を、その目で本当に見たかもしれない。
ふと、時代が育ててきたものは何だったのかなと思う。
現在の良いところを、拾い上げてはみるけれど。

真っ青な空の、夏が来た。蝉の聲が木々の葉擦れの音を消している。
信号待ちで日陰に入りながら、空を見て、海を想う。

2016.8.7

古裂古美術 蓮
田部浩子

参考文献

・「今昔物語や梁塵秘抄等に描かれた星」 勝俣隆 『アジア遊学』No,26 2001年